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2010年01月10日

今改めて深読みする「ブラックジャックによろしく」の精神科編

どうやら俺の性分として、一つの作品を何度も読む方が合ってるようだ。
広く浅く、より狭く深く。理想を言えば、広く深く行きたい所だが、そういうわけにもいかない。いつぞやの尾田先生のコミックスのコメントで「世界は狭いなんて、誰が言ったんだろう?」ってのがあったと記憶してるが(確かめようとしないというw)ほんとにそう思う。

さて、どうでもいい前書きは置いといて、「ブラックジャックによろしく」の最終章(実際は連載誌を変えて「新・ブラックジャックによろしく」として今も続いているが)の精神科編。ここに焦点を絞って。
他のとこも意味は深い作品なんだけど、この「精神科編」の重みは俺にとっては別格だった。最初は、連載初期のなんというか、「熱い勢い」みたいのがなくなってしまって肩透かしな印象も受けたんだけど。

ここで、非常に印象に残った表現がある。
「精神障害者は果たして危険なのであろうか?」から始まる、新聞記者、門脇の連載記事の最終回の締めくくり。
統計による、この「印象による差別」の根拠が曖昧であることを示し、最後にこう締めくくる。

そもそも精神障害者が危険であるかどうかという問いかけ自体意味のないことなのかもしれない
糖尿病患者は危険であるか?
高血圧患者は危険であるか?
肉体労働者は危険であるか?
サラリーマンは危険であるか?
日本人は危険であるか?


これは、俺の価値観に多大なる影響を与えてくれた、衝撃的なフレーズだった。

以前の記事で少し触れたが、この「ブラックジャックによろしく」は医療界のあり方に疑問提起し、それと闘う若き研修医の視点から描かれることが始まりだった。
しかし、ストーリー中盤から、徐々にそのテーマはより哲学的に、また社会的に、あるいは人間のあり方、としての色が濃くなっていく。
それはいいことか、悪いことかは判断しかねる。確かに、連載開始時の「勢い」に魅力を感じていた方には残念な変化かもしれない。でも、その結果、また別の大きな疑問提起をしてくれているのだから。

話は逸れたが、この「精神科編」で描かれるのは、差別意識というものの本質、報道の問題、世の中の流れという理不尽な濁流、だと俺は感じた。
「新聞が真実を伝えていると思いますか?」
「弱くてかわいそうな患者たちを正義の見方の自分が守ってあげている、その感覚こそが差別です。」
「この流れは止められない・・・」
全てのセリフに非常に重い意味が込められている。
ここまでメッセージ色が濃い作品というのは非常に稀だ。

さらに、ここでは附属池田小事件をほぼ忠実に再現したシーンがある。
ここまで作者がリスクを冒してまで伝えたいことは何だったのだろうか?それは考えなくてはならないテーマのはずだ。
実際の事件をモチーフにする、ということは少なからず危険がある。遺族感情、当事者の感情、関わった人々の感情の矛先となるから。同様に、特定の病気などにも言えることだが。
その作者の覚悟は、この登場人物である門脇の「殺される覚悟がないなら舞台になんて上がらなければいい」という言葉に集約されている気がした。
きっとこれは、登場人物を借りて、作者自身が自分の覚悟を表現したんじゃないかと。

ならば、門脇はある意味作者の代弁者なはずだ。いや、他の登場人物もそうなのだろうが、思い入れが強いキャラクターなはずだ。たぶん。
事件のあらましは、「精神病院に入退院を繰り返していた男が突然小学校に乱入し、児童と教師10数名を殺傷した」というもの。
ここで、「精神病院への入退院」を報道に載せるべきか否か、これが問題となった。
結局、報道は止められなかった。
しかし、男は「詐病」の疑いがあり、果たしてそれは、結果として正しかった。
つまり、男は自らの罪を逃れるため、重度の精神病を患っているように「演技」したのだ。
それを報道が、「精神病院への入退院」と「事件自体」をセットで伝えることにより、差別、偏見、そして、「精神病患者は危ない」という世論が形成されていく。

その中で闘った新聞記者門脇、そして精神科医伊勢谷。
この二人の信念の貫き様はそれだけで胸を打つのだが、これで世の中が変わるのかというとそうでもなく。平易な表現になってしまうが、現実は厳しい。

ここに込められたメッセージは、何も精神病に限ったことではない。
報道は今やエンターテイメント化し、目を引く見出しで釣り、憶測に基づく無責任な見方でコメンテーターが意見を述べる。
これに感化されることは危険だ。そう警鐘をならしている様にも思える。
この部分が描かれたのは今から5年前、2005年までにかけてである。
だが、決して古くない。むしろ今こそ読んで、考えるべき作品だと感じる。

安易な報道、安易な判断、多角的な検証をすべきというメディアの倫理は崩れ去り、ニュースとワイドショーの境界は曖昧になっている。
一方で、ネットの発展と普及により、一個人が情報を発信することが容易になり、また、匿名での群集心理によってその場の「世論」が簡単に形成される。
このこと自体は単なる変化、と捉えることもできる。
報道のあり方については改善が望まれる所だが、ネット社会はもうとまらないだろう。
あなたが今得た情報、それはその出来事の全てだろうか?
あなたが今抱いている感情、それはどこから来ているのか?
違う立場から、検証はできないだろうか?
中立的に、または逆の立場から考えることはできないだろうか?
それができたとき、元の感情と同じものだろうか?

社会全体が、安易に画一的な基準に流されていると俺は今、感じている。

そもそも精神障害者が危険であるかどうかという問いかけ自体意味のないことなのかもしれない
糖尿病患者は危険であるか?
高血圧患者は危険であるか?
肉体労働者は危険であるか?
サラリーマンは危険であるか?
日本人は危険であるか?


この問いかけに、今の俺は、「その人次第でしょ」と答えるだろう。
結局、肩書きにも、レッテルにも、大して意味はないのだ。
一方的に、「こうだから危険、安全」なんてことは言えるはずがないのだ。だって、人間は個性があってこその人間。同じ人間なんていない。
きっと、人間にレッテルを貼って、分類すれば判断が楽なんだろう。けど、そこには必ず「統計結果」と「個人差」があって、一概に分類のみで判断することはできないのに、それでもこの分類に個人はいとも簡単に飲み込まれる。

ある事件が語られるとき、それはよく「社会の歪み」だとか「背景にあるもの」を語られるのだが、それに意味はあるのか?
意味があるものもあるし、ないものもある。そういうものであって、画一的に「世代」で分けることも。「時代」で分けることも、危険性を孕んでいる。
それって、「社会の歪み」に責任転嫁してるんじゃないの?
だって、社会を作ってるのは、我々個人だったり、影響を与えるメディアだったりするわけでしょ?
ならば、その個人に、あるいは個人の行動に、「社会の歪み」は始まり、帰結する、という見方だってできる。その個人が、自らの行動に、思考に、責任をとりたくないから「社会」のせいにして、それが「社会の歪み」の正体なんじゃないかと。

個々人が思考を停止したとき、それは危ない。
かつて戦争に向かった日本の要因として、「国民の熱狂」が上げられることがあるが、それに似た危機感を感じている。
熱狂は、冷静さを奪う。そして「多角的検証」はなされないまま、容易に世論は形成される。それは危険だ。
また、知らないうちに呼び方が、制度が、法律が変わっている。それに何の疑問ももたないまま、ただ流れていくのはもったいなくないですか?
こうして差別が作り出され、世間が熱狂し、「印象」だけが残ったまま、時間が過ぎ去り、その事件も、出来事も忘れられていく。「印象」だけをを残して。

きっとこういうことに危惧し、疑問提起したのだろうと俺は解釈した。
必要なのは、疑問意識。それを忘れては、ただ流されるだけの意味のない存在になってしまう。その事件も、その事件を知った個人の人間性も。
今だからこそ、もう一度読んで、現代社会のあり方に疑問意識を持つための大きな一作。
きっと、価値観が変わる。ちょっと重いけどね。

ちなみに「精神科編」は「新」じゃないほうの9巻から13巻です。

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この記事へのコメント
最近、精神科編を読んで、感動してネットサーフしてたらここにたどりつきました。
的確な感想に脱帽します。

私は門脇記者の記事がそのまま文面として掲載されているのに驚きました。
作者の覚悟の程が伝わる表現に圧倒されました。

物語の中の病気を抱えた二人が…
幸せと思える人生を築いていくことを願うばかりです。
ハリウッド映画的爽快な結末ではありませんが、作者なりの「救い」が描かれたことで、
さわやか、かつ、じっくりとした読後を得ることができる漫画でした。

精神科編は、むしろ一番の傑作ではないかと思います。
Posted by おゆなむ at 2012年01月11日 00:17
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